その⑭

  強制的気分転換

 

 

 「仕事」も「子育て」も「家事」も、身の回りの全てをスマートに美しくこなしていきたい…という願いはもちつつも、そう簡単にできるものではありません。

 どちらかと言えば、できないことへのストレスとどのように向き合うか、の方が大切な力になるのかも知れません。

 さて、ここで胸を張って言ってしまってはならないのですが、私自身については、うまくいかないことの連続です。

 自己肯定感が一向に高まらないままに今を生きています。

 大変な時に必要なのは、「息抜き」なのではないでしょうか。

 ただ、大変な時にその時間を捻出するのが一苦労なのです…。

 「理屈は分かるけれど、それができれば苦労しない」の典型です。

 世の中うまくできているのかできていないのか…?

 仕事で大変な時期に限って子育ても大変な時期であったりします。

 私事ですが、息子が幼稚園に入りたての頃、仕事でも大変なことが何かと重なった時期でした。

 当時の立場は、副園長。仕事が器用にこなせるスマートな副園長ならば良かったのですが、そこは不器用な私です。世間でイメージされる中間管理職そのもののような時間を過ごしていました。

 一方、子どもは親と一緒に行動したい時期です。

 加えて、息子は電車が大好きです。休みの日と分かるや、朝早くから「パパ!電車に乗るよ!」と活動的に動きます。

 もちろん本音は、「まだ寝ていたい…」のですが、親である以上、そうはいきません。

 「い…、行こうか…!」と気持ちを奮い立たせて出発します。 (足どりは軽く見せつつも、実は重いのです…)

 近距離から遠距離まで、週末の度に、日帰りで行ける程度のいろいろなところへ行きました。

 基本的に、昼はご当地で食べる形になりますので、日頃はあまり推奨されないような思い切った内容の食事(!)をします。

 今から思うに、良い気分転換(発散?)となっていました。

 強制的に仕事から切り離される時間が生まれていたこと、そして何よりも、子どもと一緒に過ごす楽しい時間があったこと…。

 家に居たところで、恐らくはグズグズと仕事のことばかり考えていたのでしょうから、結果的に良い意味で言わば主電源を抜かれるかのようなリセットの機会を与えてもらいました。

 子どもの面倒を見ているようで、実は子どもによって救われていたという形でした。

 これから夏休みを迎えるにあたり、様々な予定を立てられることも多いかと思いますが、何より、親子でたくさんの時間を楽しんでいただければと願っています。

 健康・安全で楽しい時をお過ごしください。

 

その⑬

  「スマホは必要悪」という私見

 

 

 現代も、そして今後もますます加速するであろう情報化社会の中で、このようなことを申し上げるのは異質すぎるとは承知しつつ…

 私自身は、「スマホは必要悪」という感覚をもっています。

 (☆必要悪・・・ない方が良いが、社会にとってやむを得ず必要とされているもの)

 「何をおっしゃいますか?(驚)」

 「大丈夫ですか?(笑)」と、

 たくさんの声があがるかとは思いますが、特に人とのかかわりにおいて、私はマイナス面の方を強く感じています。

 大人同士のSNSでのトラブルは絶えませんし、対面の機会が減ることにより、相手の表情を見て、心情面を拝察しながら対話する力も衰えていきます。

(そう言えば、「オンライン飲み会」、あまり聞かれなくなりました)

 かと言って、固定電話で全てが事足りる訳ではありません。

 非常時での連絡手段として必要な部分もあります。

 ちょうどバランス的に良いのでは、と思っているのが、病院内でスタッフの方々が使用されているような、通話専用のPHSのようなイメージです。

 機能が必要最小限に限定されているため、無駄なやりとりから上手に遮断されます。調べ物などはパソコンで、と、平成半ばあたりの頃に戻るような感じがバランス的に良いように感じています。

 と、ここで大きな矛盾が…

 本園は、ルクミーを積極的に使ったり、教育活動でもICT機器を活用したり、ハイブリッド形式で保護者会などの内容を行ったり…各種内容を推進しているではありませんか、と。

 ここが、言うなれば、「必要悪」の「必要」の部分かと思います。

 子どもにとって、上手に活用すれば有益である内容や、保護者の皆様が便利になるための手段のひとつとして、一つ一つを吟味しながら実施することは、「必要」、と捉えています。

 「頑固にアナログ」も、ポリシーのひとつとして素晴らしいとは思いますが、それにこだわることで、各種の可能性を閉じてしまう側面もあるように感じます。

 大切なのは、次々と現れる内容に流されるのではなく、かと言って頑なになるのでもなく、一つ一つの内容に丁寧に向き合い、考えながら判断していく柔らかさを伴うたくましい力なのでは、と感じています。

 それにしても、次から次へと考えることばかりで、全くもってうれしい限りですが…。(愚痴涙)

 

 その⑫

  今が「子育ての充実期」という考え方

 

 

 

 我が家の話となり、大変恐縮ですが、私には二人の子ども(娘、息子)がいます。

 娘は大学4年生、息子は高校3年生です。

 この年齢になると、正直なところ、子育てをしているという感覚にはなれず、逆に子どもから指導を受けるようなことばかりです。(ヘマばかりする父親ですので…)

 まだ子育ては終わっていないことは重々承知しつつも、これまでを振り返って、いつが私の子育ての充実期だったかと問われれば、幼稚園時代の頃だったと答えます。

 理由としては…

○年齢的に親の関わりを要する内容が多々あること

○いわゆる「大人の理屈」を理解し動いてくれる年齢ではないこと

○子どもにとっては毎日初めての経験ばかりの刺激的な毎日を、一緒に考えて共に動くことが必要であること

○行きつ戻りつするようなことが多く、喜怒哀楽を共にする日々であること

 といったところでしょうか。

 例えるならば、全速力で多方面に走り続けるランナーに伴走するような感じです。

 と、文章にすると簡単に映りますが、それはそれはもう、大変なものです。

 良く言えばスリリングなのですが、毎日何が起こるか予測不能な訳です。悪く言えば振り回され続けの日々で、気力体力ともに消耗します。

 その一方で、子どもの無邪気な笑顔や、「一体、いつの間にこんなことが?」と思えるような成長の一端を目の当たりにしたり、「いつもありがとう」などの言葉に感動したりと、「子どもと一緒になって自分も全力で生きている感」が味わえるからこそ、充実期と言えるのではと思います。

 今週は、トライデー(親子七夕制作)を実施いたします。

 コロナ禍により、制作の内容は何年も中止していた行事でしたので、今年度の在園児は初めての経験となります。

 当日は、何より親子での関わりを十分に楽しんでほしいと願っています。

 このようなシチュエーションの時、ひょっとすると周りの友達の出来栄えや、お子さんの取り組み具合いが気になることがあるかも知れませんが、それらのことを気にするあまり、急いで作らねばと躍起になったり、お子さんを叱咤したりといったことをしてしまうと、せっかくの貴重な機会がお子さんにとって負の内容になってしまいます。

 ゆったりと、和やかに楽しめる時間になるよう、ともに進めていただければ幸いです。

 そして、将来、子育ての思い出を振り返った際、この行事も懐かしい経験の一つとして心に残るものになれば、うれしく思います。

 

 その⑪

  節目の年にあたり ~「昭和」という言葉~

 

 

 先週の土曜日は、開園記念日でした。

 6月の誕生会でもその歴史に触れ、30周年の節目の年を、皆でたくさんのお祝いをしていこうね、という話をしました。

 玄関ホール壁面には、その時のクイズが掲示されていますので、降園時にでもご覧いただければ幸いです。

 今年度は、「現在の」京橋朝海幼稚園になってから30周年ということになります。

 歴史を紐解きますと、旧京橋朝海幼稚園は明治20年の開園ですので、今年度で135年、京橋幼稚園は昭和6年の開園ですので、同じく90年の歴史があります。

 途中、楽しいことばかりではなく、戦争をはじめとした数多くの困難も経て今日を迎えています。

 これまでの歴史を振り返る機会を多くもち、これからに向けて、より思いを馳せるようにしていきたいと考えています。

 さて、令和を迎えてから、「昭和」という言葉があまり良い意味でない使われ方をするようになったと感じます。

例えば…

「昭和だよネー」(笑)

「こういうところが昭和なんだよ!」(怒)

「ホント、昭~和!」(呆)

 など、冗談のレベルというよりも、考え方が堅くて古い人を指す言葉として使われるようになっていると感じます。

 その他にも、「老害」や「生きた化石」など、先人を敬うよりも、「改革」等の聞こえの良い言葉の下に、過去を次々と否定する傾向が強くなりつつあるように感じるのは、私だけでしょうか?

 と同時に、「価値観多様な世の中に…!」という言葉も多く聞かれます。

 それならば、当然のことながら、多様な価値観の中には、これまでに大切にされてきた先人の知恵や考えも含まれなければならない、ということになります。

 「良薬口に苦し」ではないですが、人の数だけ考え方もあるわけですから、時には自分を改めなければならないことも生じます。

 価値観が異なることに遭遇するのはストレスでもありますが、そのような経験の積み重ねこそ、結果的に自分自身の人間力を高めることにつながるのではないかと思います。

 そして、「昭和も良かったよネ~」といった肯定的な言葉が増えていくと、各種の価値観が融合するような気がして、何だかうれしく思います。

 その⑩

  「でも・・・」って言う人、言わない人

 

 

 

 「躾」や「マナー」の面において、厳しく言われた言葉、皆様もおありかと思います。

 「でも・・・」っていう言葉、その一つかも知れません。

 ついつい、無意識のうちに使ってしまいがちなこの言葉。

 もちろん、使わなければならない時はありますので、全く使うなということではないのですが、会話の際に相手から頻繁に使われると、微妙にイラッとすることもあるものです。

 よくあるのが、

・散々皆で話し合って、決まったはずなのに…

・誰かに耳の痛い指導をされて、「分かりました。」と言ったはずなのに…

 その直後に、相手の「でも・・・」という言葉を聞いた時の疲弊感といったら、言葉に言い表せない時もあります。

 「結局、人の話を聞かずに、自分の主張しかないんでしょう?」と言いたくなってしまいます。

 厳しさを伴う躾(指導)の場面では、そのような時、

 すかさず、「でも・・・じゃない!」「言い訳をしない!」

 「話を蒸し返さない!」などの心に刺さる言葉が飛び交っていたように思います。

 それでは、逆に、「でも・・・」が出てこない会話をしていると、

 何だか、展開が前向きに進んでいくような感じがしてきて、言葉を交わすことが気持ち良くなってきます。

 (もちろん、ケースバイケースですが)

 実際のところ、人間の性(さが)としては、自分の思いを通したくなるものなのかも知れません。

 「清濁併せ呑む」という言葉があります。

 ご存知のように、どのような水でも受け入れる海が由来とされています。

 川の底が見えるほどの透明度を誇る清流も、泥川の濁流もありますが、海は水が綺麗か否かで選別することはありません。どんなに濁っている水でも受け入れます。

 「でも・・・」って、ついつい自分の主張が先に出てきそうなその時にこそ、海のような心持ちになって一端は呑み込んでみることも、時には必要なのかも知れません。

 その一瞬はストレスかも知れませんが、そのことで、案外全体としては良い方向に向かうことが多いような気がしています。

 心にゆとりが少なくなりがちな現代の背景も手伝ってか、人とのかかわりにおいて、所謂「マウントの取り合い」に終始する傾向が強くなっているように感じます。

 いろいろな人からの言葉や価値観を受け入れることができる大海のような度量を、少しでも多く持ちたいものですね。

 

その⑨

  紙の新聞と電子版の新聞

 

 

 

 

 

 

 近年めっきり少なくなりましたが、駅には概ね小さな売店がありました。

 そこには朝一番に新聞各紙が並び、多くの方々が通勤途中で購買してはホームに向かう、という光景が当たり前のように見られていました。

 電車の中では、最新の情報を収集するべく、真剣な表情で新聞を広げる姿がたくさん見られていました。

 紙の新聞ばかりだった頃に比べ、今ではタブレット等で新聞を読む姿の方が多くなってきたように思います。

 課金すれば、電子版の新聞で全面を閲覧できますので、私もそのようにしてみた時期がありましたが、何だかしっくりきません。

 このあたりの感覚は、人それぞれなのでしょうが、私としては、何だかルーペを片手に新聞を読んでいるような感覚で、全体を俯瞰しながら読むことができないことに違和感を覚えていたように思います。

 もう少し器用に感覚を使い分けることができれば、トレンドの波にうまく乗ることができたのですが、未だ紙の新聞の方がしっくりくる不器用な自分がいます。

 うまく時代に適応できないからか、心配は募ります。

 新聞の宅配制度はどうなってしまうのか?近い将来、新聞の全てが電子化されてしまうのか?そうなると、書籍についても同様に全てが電子化されてしまうのか?そうなると自分としては嫌だなぁ、と、次々とイメージが悪い方に溢れてしまいます。

 デジタル化の波が大きくあることは承知しつつも、その波がもう少しゆったりしてほしい、かつ、アナログと共栄共存してほしいと願うのは私だけでしょうか。

 仕事柄、子どもの発達に必要なアナログ的経験を考えることが多いため、一層そう思うのかも知れませんが…。

 実は、将来的にマスターしたいと思っている内容があります。

 それは、混雑している電車内でも対応できるよう、器用に新聞を何重にも縦に折りたたむ技です。

 これも、日常的に車中で見られていた光景です。

 瞬時に細長くきれいに折り畳む、その「匠の技」は、いつの日か身につけたいと思っていました。

 聞くところによると、これまで電車の混雑率は、「新聞をどの程度広げて読めるか」が基準とされていましたが、新たに「スマホの操作のしやすさ」を取り入れるべく、検討されているのだそうです。

 それはそれとしても、子どものお手伝いの定番であった、「新聞受けから新聞を取ってくるお仕事」が衰退することについては、時代の流れとはいえ、一抹の寂しさを禁じえません。

 

 

その⑧

  近しきSNSにも礼儀あり

 

 このところ、時が経つのが早くなったように感じることが増えてきました。

 それは、私が年をとったから、ということは理解しつつ、それにしても…と感じるのは、恐らくは、日々膨大な情報量が迅速に行き来する世の中になったからなのかも知れません。

 そのような時代に取り残されないようにするために、トレンドについていかなければ、と一人背伸びをする日々です。

(ふくらはぎをピクピクさせながら…)

 スマホ一つ取り上げても、もはや小型パソコン以上の状態です。

 娘や息子、また、先生たちから多くの話を聞きながら、なるほどなるほどと、勉強の日々です。

 今やスマホがなくなったら最後、途方に暮れるような生活様式になっているのが現実です。

 肌身離さずに扱うスマホ。だからこそ気をつけなければと感じるのは、人とやりとりをする際の感覚についてです。

 メールやライン、各種の書き込みなど、SNSを扱う機会も多いかと思います。

 そのような際、案外出やすいのが、「情」です。

 良い方面の情ならば良いのですが、悪い方面での情も出やすくなります。

 そこに相手が直接いない分、良くも悪くも本音((さが))が出やすくなります。

 自分の心にブレーキをかけにくい状態が生まれやすくなること、また、端的な文章が中心になることから、誤解も生まれやすくなってしまいます。

 心ない書き込みが相手を深く傷つける内容については、各種報道等の通りですし、親しい相手とのやりとりでも、ちょっとしたことでボタンの掛け違いに発展してしまうこともよくあります。

 だからこそ、自分の思いを表現するその前に、「相手」に思いを馳せることを大切にしたいものです。

 内容云々についてはもちろんのこと、例えばラインを送る際の時間帯は適切なのかなど、「自分は良くても、相手にとってはたまったものではない」ことについても、発信の数と同じだけ考えることが求められているように感じます。

 言葉のボールは投げっ放しで良いものではなく、あくまでも相手と心地よいキャッチボールをするためにあるものだと思います。

 「親しき仲にも礼儀あり」という内容に加えて、「近しきSNSにも礼儀あり」を意識しなければならないと感じます。

 私自身は、本音の部分で「それにしても、全く面倒な世の中になったなぁ…」と思いつつ、「ダメダメ、今の世の中に順応しなければ…」と自問自答しながら背伸びする日々です。

 

  その⑦

  前向きに、「幕引き」

 

 

   6月1日より、いよいよ「園務支援システム ルクミー」による保護者限定アプリの運用が本格実施となります。

 保護者の皆様には、これまで数回に渡るテスト配信などにご協力いただき、誠にありがとうございました。

 途中、トラブルなどあり、大変ご迷惑をおかけいたしましたが、今後もシステムと連携を図り、何か生じた際にはすぐにお伝えするようにいたします。

 さて、今後、ルクミーの中では、週に3回程度、担任の先生から子どもたちの幼稚園での姿を写真とコメントによりお伝えすることとなります。

 SNSのような身近な感覚でご覧いただければ幸いです。

 このことにより、これまでホームページの中で、「今日の一枚」と題したコーナー(幼稚園の一日を通し、その日を象徴する一シーンをお伝えしてきたコーナー)は、幕を引くことといたしました。

 ささやかながらも、子どもたちの日々の教育活動の様子をお伝えできたメリットはありましたが、一方では、ホームページという不特定多数の方々がご覧になる媒体であるため、人物が特定できない程度の「引き」の写真を使わざるを得ないことから、却って「もっと様子が分かる写真を見てみたい」というジレンマが生じるというデメリットもありました。

 実は(ご存知の方も多かったかと思いますが…)、このコーナーを担当していたのは、私でした。

 心ばかりでしたが、教育活動の内容を少しでも「見える化」したい、との思いのもと、取り組んできました。

 振り返れば、前任園からでしたので、10年を経過していたということになります。

 途中、一昨年度の入院の時に途切れたこともありましたが(本当にその節はご迷惑をおかけいたしました)、皆様のおかげでここまで続けてくることができました。 

 この場をおかりして、皆様に心より御礼申し上げます。

 「今日の一枚」は、担任の先生たちにバトンタッチです。

 子どもたちに一番近い存在である担任の先生になりますので、よりうれしい姿をお届けできるかと思います。

 私は、引き続きこのコラムの方で、諸々の内容を徒然なるままにお伝えしてまいります。

 これまで同様に、ホームページや掲示板で、そして、ルクミーの方にも添付いたします。

 隙間時間にでもご覧いただければ、幸いに存じます。

 今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます。

 

 その⑥

 新たな「仲間」が加わりました

 

 

 今週、幼稚園に新たな「仲間」が加わりました。

 お待たせいたしました。「お蚕さん」です。

 (本園のお蚕さんは、錦秋(きんしゅう)鐘和(しょうわ)という病気などに強い品種です)

 本園で毎年の風物詩となったこの光景ですが、遡ると凡そ3年前当時の保護者だった方からご提供いただいたお話がきっかけです。

 それ以来、今回もそうですが、こちらのタイミングに合わせる形でご提供いただいている、という流れです。

 最初にご提供いただいた時に、お蚕さんの唯一の餌である桑の木の苗木を頂戴し、校庭側トイレ横の花壇に植樹いたしました。

 すくすくと育ち、たくさんの葉をつけています。

 子どもたちは、この葉を摘んで洗い、餌として与えています。

 さて、お蚕さんは、デリケートな生き物ですので、うまく子孫を増やす時もあれば、そうでない時もあります。

 因みに昨年度は、導入したタイミングが寒さを迎える時だったこともあり、残念ながらうまくいきませんでした。

 また、うまく子孫を増やすことができても、それを繰り返すうちに個体そのものが弱くなってしまう、ということも生じます。

 そのため、いずれにしても、定期的に新たな仲間を増やす必要が出てきます。

 難しくもあり、それ以上に楽しくもあり、というところですが、子どもたちにとって大切な経験がたくさんできます。

 お蚕さんは、人工的に作られた生き物であるため、アゲハチョウなどの自然界にいるチョウとは似て異なる部分が多々あります。

 その違いや共通点も、たくさん学んでほしいと願っています。

 子どもたちが、日常的に関わる機会の多い生き物とはまた違ったアクセントとしての経験ができることの有益さもさることながら、

 これまでに日本の産業を支えてきた内容の一つであるという文化的な側面も感じてほしいと願っています。

 昔の日本は、桑を栽培し蚕を育て、繭を生産するという養蚕農家が多くありました。

 農家の母屋の二階を養蚕の場とし、農業の副業で行ったり、農業がうまくいかない際に、一念発起で養蚕専業農家に転じたりという例も多くあったそうです。

 「お蚕さん」と人間のように親しみを込めて呼ぶネーミングも、このような経緯があり、大切にされてきたからとされています。

 しかし、養蚕農家の高齢化や後継者不足、また外国産の絹の輸入が増えることなどに伴い、産業の現状は厳しいものがあります。

(日本における国産シルクの生産量は、全体の0.2%なのだそうです)

 皆様も、社会科の授業で地図の記号について学んだ際に、「桑畑」のマーク( )を教わった方も多いかと思いますが、現在はあまり教わらないものになってきているのだそうです。

 これから、どんどん大きくなるお蚕さんを愛でながら、糸をはき繭を作る姿、そして蚕蛾(かいこが)が生まれ交尾をし、新たな命が誕生する瞬間など、たくさんの学びや発見が子どもたちに育まれるよう、進めていきたいと思います。

 日常的に目にする機会は案外少ないものです。皆様も折に触れ、どうぞご覧になってください。

  

 その⑤

   善なる心に幸せは宿る・・・?

 

 

 

 5月も半ばとなり、生き物たちが伸び伸びと活動しています。

 我が家の近所にある屋内駐車場の軒下には、長年に渡りツバメの巣があります。

 今年もツバメが飛来し、毎日忙しそうに巣と外とを往来する姿が見られています。

 駐車場のオーナー様も心得たもので、シーズンになると巣の下の床部分にダンボールを敷いて、糞を上手に処理できるようにされており、共栄共存の様子が伺えます。

 さて、幼稚園玄関ピロティー天井奥の2箇所に、「ぺ○ングソース焼きそば」の容器が吊るしてあります。

 これまで在園だった方はご存知かと思いますが、これは、ツバメが巣を作ることを期待して設えた環境です。

 都心でツバメを見かけることが少ない今、「銀座のツバメ」は、毎年ニュースで取り上げられるほどの価値ある内容になっています。

 3年前には、NHK「ダーウィンが来た!」の取材を受けました。

 子どもたちもよく訪れる屋上のビオトープやプールは、この銀座のツバメのための大切な生活環境として活用されています。

 このシーズンは、運が良ければ、校園庭に(例 大きな鯉のぼりを吊るしてあったワイヤー部分で羽根を休めていることがあります)ツバメの姿を確認することができます。

 それだけに、施設内に、かつ皆の出入りがある玄関にツバメの巣があればどんなに素敵なことだろう、という願いをもってこの環境は設えてあるのですが(ツバメの巣は、相応に賑わいがある環境にあることも必要な条件であるとのことです)、残念ながら現在のところ、まだその兆候は見られません。

 来月には、プロ・ナチュラリストの佐々木洋先生をお招きしての、親子自然探索会を予定しています。

 このソース焼きそば容器の方法をご示唆いただいた経緯もありますので、諸々お聞きできればと考えています。

 ツバメがいる家には、幸せがもたらされる、と古くから言い伝えられています。

 幼稚園の皆が幸せになるように、と願いをもっての取組ですが、非科学的であることは重々承知しつつも、それにあたって大切なのは、何よりも日頃の私の行いなのでは…、という思いが募っています。

 善なる心のある処に幸せは宿るのだと思います。

 それには、もっと自分自身が子どもたちのように、善なる心を養っていかなければ、と反省することばかりの日々です。

 

その④

  先進技術との個人的な戦い

 

 

 大型連休が明けました。各ご家庭では楽しく充実した時をお過ごしになったことと思います。

 連休明けは、子どもも大人もリズムを取り戻しにくいものです。焦らずに整えていく週としていただければ幸いです。

 さて、世の中は日々良くも悪くも進歩しています。

 特にITに代表される分野は、今後も予想がつかないスピードで発展していくことが予想されます。

 毎年のように、AI対人間の将棋対決なるニュースが取り上げられることもあります。 

 技術の発展は期待しつつも、どこかで最終的には人間に勝ってほしいという願いをもってしまいます。

 その中で、ささやかながら、将棋対決のレベルでは全くありませんが、私も密かに先進技術と対決しています。

 それは、「睡眠トラッカーとの戦い」です。

 お使いの方も多いかと思いますが、スマートフォンやスマートウォッチ等で睡眠の質を可視化する、という機能があります。

 これがなかなかの優れものであり、睡眠の深さや昼寝の時間まで測ってくれるため、随分とお世話になり、その都度一喜一憂しているところです。

 一方、それだけで素直に満足していれば良いのですが、全てにおいて人間が敗北しているような複雑な思いにもさせられてしまいました。

 そう思うと、どこかに隙がないものなのか、という気持ちも生じてきます。

 「本当にあなた(機器)は私の全てを分かっているのですか?」という思いをどこかにもちながら向かい合うようにもなってきました。

 そうこうしながら向き合い続けてきた結果、一つだけ、盲点を見つけました。

(自分でも一体何をやっているのだとは思いつつ…)

 それは、「電車でうたた寝をしている時は計測されない」ということです。

 電車ならではの振動がそうさせるのか・・・?それとも相当に浅い眠りであるからなのか・・・?理由は定かでありませんが、明らかに測定はされていません。

 その都度、ささやかな優越感に浸っている自分がいます。

 今後、機器の精度はますます高くなるでしょうから、私が敗北するのは時間の問題なのでしょうが、今後も見えない駆け引きを繰り返しながら先進技術に向き合っていきたいと気持ちを新たにした次第でした。

(その前に、電車でうたた寝をしない生活をする方が大切であることはよく分かっているのですが…。情けない話です)

 

 その③

  同じ場所でも違う見え方

 

 

 大型連休を控え、各ご家庭では楽しい予定を立てられているところも多いかと思います。

 とはいえ、何かしらの制限もある中ですので、一方では悩みながらかとは思いますが、大人も子どももリフレッシュできる時になればと願っています。

 さて、時折ご相談を受けることがある内容なのですが、お出かけするにあたり大人が気合を入れてプランした内容だったのに、肝心の子どもがそれほど楽しんでいなかったという経験がおありの方も、いらっしゃるのではないてしょうか。(私も苦い経験が多々あります)

 ひょっとして、ここがポイントなのかも、と思うことを記していきます。

 例えば、お子さんと一緒に行動する際の手段についてです。

 徒歩にはじまり、自転車や車、バスやタクシー、地下鉄など、様々です。

 大人の感覚ならば、概ね目的地へ効率よく早さを伴って移動することを目的とする場合が多いため、「時短」や「快適さ」が優先されます。

 一方、子どもの場合はそれ以上に、「楽しさ」や「面白さ」が優先される傾向があります。

 仮に、親子でバスに乗ったとして、

 お子さんそれぞれに、感じている内容は多岐にわたるはずです。

 窓からの景色の移ろいに興味を示すお子さんもいれば、運転席の仕組みに興味が向くお子さんもいることでしょう。

 その他にも、降車ボタンを押すことに意識が向いたり、車内アナウンスの声に興味をもったりすることもあるかも知れません。

 大人としては、「何故にこんなことに興味を持つの?」と不思議に感じてしまうような内容こそ、子どもにとっては大切な気づきや発見の機会であることが多いものです。

 そのあたりで、大人と子どもとのポイントのズレが生じてしまうのかも知れませんね。

 親心としては、できるだけ子どもにとって興味や関心をもてるような機会を作っていきたいものです。

 そのように考えれば、子どもの興味に合わせ、どちらかと言えばスローペースな動きの方が、子どもからするとうれしい、ということになります。

 遠方へ出掛ける際も、現地でゆっくりと動けるようにしたり、行程を少し減らしてみたりするだけでも随分と違うはずです。

 敢えて急がない、というのも、良いものです。

 それは、車よりは自転車、走るよりは歩く方が、何かと発見の機会が多いことに重なるのかも知れません。

 何となくではありますが、私自身、鉄道好きの息子と旅を重ねるうちに、そのことが分かるようになってきた気がします。

 

 その②

  子育ての「今のこの時」

 

 

 私自身、立派な子育てをしていると言えず、失敗と後悔の連続だった訳ですが、その中で感じることを僭越ながら少々述べたいと思います。

 子(人)育てにあたり、「手塩にかけて」という言葉があります。

 主には自ら手をかけて大切に育てる、と良い意味で使われることが多い言葉なのですが、一方では、大変な時は、子育ては「手がかかる」と、負担のニュアンスが強くなることもあります。   

 「子どもは、かわいい!」

 「子どもの笑顔は、最高!」

 「子育ては、私の生き甲斐!」

 だけであれば良いのですが、親の思い通りになる時ばかりではありません。

 やらなければならないことがある時に限って、泣かれたり(親にとって困る行動をとる)、言うことを聞いてくれなかったり、駄々をこねられたりと、親のペースを乱されるかのようなことも多々あるのが現実ではないでしょうか。

(少なくとも私はそうでした)

 本園でも、まさしく子育ての真っ最中である先生とも話すことがありますが、実は、大変で大変なこの毎日の中でも、子どもは確実に成長しています。

 「いやいや、そのような気休めを言われても、実感できません」と思われるかも知れませんが、例えば、一番分かりやすいのが、身体の成長です。

 久しぶりに会う方から、「お子さん、大きくなりましたね!」と声を掛けられ、「言われてみれば…」と感じたことがあったご経験、おありかと思います。

 心の成長についても、同様に、お子さんの同じ「泣く」という行動でも、よく見てみると、「快か不快か」だけでなく、そこに相応の「理由」が付き、増えていること、そして、自ずとその理由を一緒に考えるシーンが増えていることもお気づきいただけるかと思います。

 「知らないうちに、実は成長している姿」です。

 当然のことなのですが、親は毎日お子さんと現在進行形の生活を送っているため、成長に気づきにくい側面が生じやすくなります。

 それよりは、できないこと、うまくいかないこと、といった表層面の方に意識は向きやすくなりますので、「なぜ、うちの子はできないことばかりなのか」と捉えてしまいやすくなるのです。

 昨日より今日、今日よりは明日と、着実にお子さんは心身ともに成長しています。

 そして、ふと振り返ると、「手がかかっていた部分」が少なくなっていることが実感できるはずです。

 それは、同時に、「手塩にかけて育ててきたことが成果となって表れてきた瞬間」とも言えるのではないでしょうか。

 心持ちとして大切なのは、「成果を焦らないこと」なのではないかと思います。

 乳幼児期のお子さんと日々向き合うのは、苦労の連続ですが、この苦労は全てお子さんの成長につながっています。

 何よりもご自分を労ること、そして程よい「ユルさ」を持ち合わせながら、このかけがえのない日々を紡いでいただければ幸いに存じます。 

 

 その①

  なぜかケーキを買いたくなる日

 

 

 ご進級、ご入園、誠におめでとうございます。 

 心よりお祝い申し上げます。

 先週末には、入園式で新たな友達を迎え入れ、新しい年度の教育活動が始まりました。

 さて、今は日常的に(良いのか悪いのかはさておき)ケーキを食する機会が増えています。

 喫茶店などでは、飲み物の横にケーキがある光景が当たり前のように見られるようになりました。

 私が子どもの頃は、ケーキが食べられるのは年に数えるほどで、それは、誕生日の時と、クリスマスの時とに限られていました。

(余談ですが、私の誕生日が1223日のため、毎年誕生日ケーキとクリスマスケーキを一緒にされないように権利を主張するのが習わしになっていました

 稀に結婚式で振る舞われたバターケーキにありつけることもありましたが、数多いことではありませんでした。

 そのような感覚だっただけに、ケーキは特別なご馳走であるという意識が強いのですが、なぜか無性にこの時期にはケーキを買いたくなる衝動にかられます。

 入園の時、卒業の時といった大きな節目に限らず、気がつけばほぼ毎年、「進級祝い」と称して帰宅途中にケーキを買って帰る自分がいました。

 やはり、そこには、お祝いの意味はありつつも、無病息災で一年を過ごしていきたいという思いが何よりも強いからなのだろうと思います。

 実際には叶わないことではありますが、本園の子どもたち一人一人にオーダーをとって、一番好みのケーキをプレゼントしたい思いです。

 京橋朝海幼稚園の子どもたちが、無病息災で自己実現できる一年であることを祈念しつつ、今年度の教育活動を展開してまいります。

 何卒よろしくお願い申し上げます。

 ☆悩みや苦労、楽しいこと等々・・・、子育ては抱え込むことのないよう、私はもちろんのこと、気兼ねされることなく職員へお話ください。