その⑭

 ある時は、風流?

 

 年々その時季が早まる感がするところですが、夏真っ盛りの暑さを迎えました。

 水遊びが心地よい季節でもあります。

 本園のプールは屋外ですので、日々気温と水温、湿度の状況を見ながら実施の可否を判断しています。

 さて、屋外プールならではの風景ですが、風で飛来する落ち葉や虫が水面に浮かぶことがあります。

 その際の子どもたちの反応は、実に様々。「おおっ!」と驚く声もあれば、「うわぁ~!」「やめて~!」の声もあります。

 プールに浮遊物があるのは望ましいことではないため、その都度取り除いているのですが、不思議なことにこれがプールではなく、露天風呂であれば風流な絵にもなる訳で、何だか人間の心持ちって不思議なものだなぁ…と感じることがあります。

 このように考えると、案外シチュエーションや枠組みを工夫することで、これまで抵抗感を強く示していたような内容が逆に楽しいものになる可能性も秘めているような気がしてきます。

 人間、知らず知らずのうちにルーティーンな生活を続けてしまうものなのかも知れませんが、一方では、ルーティーンになっている内容そのものを見直してみることも必要に感じます。

 子どもたちは、可能性をたくさん秘めています。その子どもたちに関わる我々大人こそ、従来の枠にとらわれない発想を持つことが大切に思っています。

 これから夏季休業を迎えるにあたり、ご家庭で過ごす時間が増えます。

 皆様におかれましても、バリュエーション豊かな生活を送りつつ充実した日々となることを祈念しています。

 

その⑬

 外出時の必携品

 

 

 

 お子さんの年齢や興味・関心により様々かと思いますが、外出時に何を持って行くか、楽しくも悩ましくもある内容かと思います。

 私はと言うと、今は成人の息子が幼稚園~小学校低学年だった頃、週末になると、電車に乗っては各所に出掛けたものでした。

 イベント会場や賑わいのあるスポットに行くというよりは、自然が多い場所に行く方が多かったですので、自ずと持ち物もその場に準じた内容となります。

 かさばるのは嫌だし、それ相応に楽しめるものにもしたいし、で、結果的に行き着いていたのが、100円ショップで売っているような柔らかい小さ目のボールでした。

 これならば、荷物にはなりませんし、仮に準備を忘れてしまっても現地に100円ショップがあればすぐに購入できますので、自ずと必携するようになっていました。

 少しの場があれば、そこですぐにキャッチボールが始まります。息子の成長に伴い、キャッチボールの距離は延び、ボールの速さも増していきますので、うれしさを感じるひとときでもありました。

 そして、このボールはその軽さゆえに、結構変化球を投げやすく(!)私はここぞとばかり父の威厳を保とうと、インチキな変化球を数々投げては微妙に肘を痛めるのでした。

 この経験があったからなのか、(と信じたい・・・)息子は小学生の時に少年野球を行い、今でも連日テレビを見ながらごひいきの球団に対して一喜一憂しています。

 只、これが正解だったとは思えず、他にもっと良い方法があったかも知れないという思いは残っています。

 結局のところ、何を選ぶのかについての正解はなく、お子さんのことを思いながら試行錯誤していく他はないように思います。

 子育ては喜びだけではなく悩みを伴い、行きつ戻りつの連続ですが、(少なくとも私はそうです)お子さんのことを思い行動することそのものが何よりも尊いのではないかと思っています。

 

その⑫

 これは、ひょっとして?

 

 

 先日、とある地方の体育館へ行く用事があったため、風光明媚な駅に降り立ちました。

 駅から目的地までの交通手段が限られていたこともあり、歩いて向かうことにしました。

 時間的見通しとしては、30分程度といったところです。ちょうど良い運動ができると思いつつ、現地にある掲示板の地図でルートを確かめます。

(スマホの地図を使うこともありますが、どうも土地勘的なものが鈍ってしまうような気がしてしまい、極力現地の地図と野生的勘?を使うにするようにしている私です・・・)

 何だか歩きやすそうな道があったため、そこを歩いてみることにしました。

 舗装されている一本道でありながら、車は通行禁止とされているため、安心して歩くことができます。

 一見、サイクリングロードのようにも思えるのですが、ちょっと違う感じもします。

 そうこうするうちに、その道の傍らに遮断機(踏切)があるのを見つけました。

 これは、ひょっとして・・・。

 と思っていたところ、ちょうど案内図がありました。

 それを読むと、やはり!でした。

 元々石炭を運ぶための線路があり、廃線になったことに伴ってそこを遊歩道的に整備した道だったのです。

 遮断機はその後も数カ所あり、また、所々には取り外せなかった線路(?)状のレールが埋め込まれてあるのも発見しました。

 時代の流れなのでしょう、廃線が増えている現状を改めて感じた時でもありました。

 一方、二度と戻せないのかな、と思うと何だか寂しい気持ちにもさせられました。

 人口減、産業の変化、コスト面等々、様々な内容が絡むだけに、単に存続を望むだけでも無責任に感じます。

 なかなか難しい問題であることを感じながら歩いていると、道の両脇に、恐らくは地元の方々によって育てられた花壇が随所にあるのを見つけました。

 私以上に地元の方々は相当に複雑な思いであったことでしょう。

 しかしながら、そのような中でもきれいな花でこの道を彩る人の優しさなる部分を感じることができ、何だか救われたような思いになったひとときでした。

 

その⑪

 音楽コンプレックス(その⑤)

 

(前回の続き)

 今年度は、本園の開園70周年の節目の年となります。

 今回、各種の取組を行なうにあたり、大きなコンセプトをもって行なうことといたしました。

 そのコンセプトが、「音楽」です。

 理由としては、子どもたちに豊かな経験ができること、そして、子どもも大人も、年齢や立場等の枠を超えて一緒に楽しめる共通のツールであるからです。

 私にとっては、よりによって(!)の展開でしかないのですが、これも何かの因果なのでしょう。

 私のことはさておき、何よりも子どもたちにとって実りある内容となるよう、進めていきたいと考えています。 

 そして、思うところもあり・・・ 

 本来、「音楽」は、読んで字の如くで、音を楽しむものでなければならないと思っています。

 一方で、現実面はと言うと、世知辛い次代背景もあるからなのでしょうか、早々に成果を求めるきらいがあり、出来映え優先・能力至上主義的なものを感じることがあります。

 音そのものを心から楽しむ経験、自分なりの楽しみ方で歌ったり演奏したりすることを十分に楽しむ経験がもっとできて良いのではと思います。

 音楽に限らずの話にもなりますが、「評価」が第一にあることで、結果的に子どもを追い詰めてしまうことにもなりかねません。

 この風潮がエスカレートすると、私のような音楽コンプレックスを更に生んでしまうことにもなります。

 今、運動でも生涯に渡って楽しめるようにすることが大切と言われており、各種の取組がなされている中、音楽は運動以上に長期間楽しめる良さがありますので、その良さを生かした取組を行い、音に親しむことの楽しさを幼児期にしっかりと味わってほしいと強く願っています。

 今回の周年記念式典において、そこに集った大人や子どもたちが皆で取り組める演奏会を企画したのも、音楽本来の楽しさや醍醐味を味わえるようにしていきたいという思いからです。

 内容・構成はまだまだこれからですが、音楽という共通ツールの下、多くの方々の思いが集まって、人と人とが笑顔でつながるような内容にしていきたいと思います。

 保護者の皆様におかれましては、出来映え等は一切気にする必要はありませんので、(何しろ、私自身がこのような有様ですから…)自分が心から楽しめるスタンスで、自分なりの方法でご参加いただければ幸いです。

(そして、あわよくば、今年度の取組を通して私のコンプレックスが少しでも和らげば、と密かに願う今日この頃です)

 

その⑩

 音楽コンプレックス(その④

 

 

 

 (前回の続き)

 そして、学級担任となった私は、子どもたちの前でピアノを弾くこととなりました。

 当然のことながら、ただ弾ければ良いのではなく、子どもたちの動きを見ながら、且つテンポ等を合わせながら弾くことが求められます。

 学級担任になった以上、何としてでも弾かなくてはなりません。

 そこで、私が編み出した方法は、名付けて「形状記憶法」。

 内容としては、至ってシンプルです。

 反復練習をして指にその曲を覚えさせ、いかなる状況下においても間違えることがないようにするという、楽譜が読めない私だからこその方法でした。

 根底には、私の中に、ひたすら筋トレを行って体に覚え込ませるという、運動部独特の考え方があったのかも知れません。

 ヒンズースクワットをするかのように、ピアノの反復練習です。

 何よりも、子どもたちの前でピアノが止まってしまうことだけは避けたかったので、目を閉じて練習したり、暗闇の中で練習したり他の音楽をかけながら練習したり、と、様々なシチュエーションを設けつつ「形状記憶ができる指作り」に徹するようにしました。

(傍から見ると、相当に滑稽な姿だったと思います・・・)

 子どもたちの前でピアノを弾くのは、緊張を要するはずなのですが、不思議なことに、あまりにもゆとりがなさすぎたため、緊張という選択肢すらありませんでした。

 私の姿は、時に誤解を生むこともあり、とある参観日の降園時、保護者の方から「先生は楽譜を見ないのにピアノが弾けて、すごいですね!(笑)」とお褒めのお言葉を頂戴したことがあったのですが、とんでもない話で、楽譜があると間違えの元になるので、置くことすらできなかったというのが真相です。

 この形状記憶法は、弱点もあり、スタート時点での指を置く位置を間違えてしまったら最後、形状記憶のまま指が動いてしまいますので、とんでもない曲になってしまうのでした。

 また、私の指のメモリ不足により、複数の曲を覚え込ませるには自ずと限界もありました。

 そして、最大の弱点はというと、この方法のために莫大な時間を要してしまうことでした。

 幼稚園は勿論のこと、家庭でも夜間や土日は相当の時間をピアノに費やすこととなりました。

 悲しいことに、その所要時間は一向に改善される見込みはなく、ピアノを弾く度に子どもたちに対して申し訳ない気持ちになること続きでした。そして、結果的に私の学級担任としての寿命を縮めてしまう一因にもなったのでした・・・。(涙)

 

その⑨

 音楽コンプレックス(その③)

 

 

 (前回の続き)

 大学は小学校の先生になるつもりで入学しましたが、運命の悪戯が生じて、(このあたりも経緯も相当にあるのですが、省略します)幼稚園の先生になることを目指しました。

 ところが、ご想像の通り、幼稚園の採用試験を受けるにはピアノ等の音楽の能力が小学校の採用試験以上に求められます。

 私の能力では、この時点で「THE・END」なのですが、幼稚園の先生になりたいという思いが勝り、茨の道を歩むことにしました。

 とは言え、学校のピアノ実技の授業は既に終わっていましたので自分でどうにかするしかありません。

 そこで、所謂一般の音楽教室に通ってピアノのレッスンを受けることにしました。

 学生時代は親元を離れて一人暮らしをしていましたので、金銭的ゆとりはなく、結構な額の月謝を払うのは非常に苦しいものがありましたが、背に腹は代えられません。

 大学のピアノ練習室で練習をしては、週一回のレッスンに通うという生活が始まりました。

 大学では運動部に属していましたので、決まって服装はジャージです。およそピアノ教室にはふさわしくない服装で出入りしつつ、申し込み時にお願いをした「やさしい先生」に、懇切丁寧な指導をいただきました。

 実はそれでも能力が向上しないことは、自分が一番よく分かっていましたが、少しでもどうにかしたいという気持ちだけでした。

 実技の他に、音楽関係の筆記に関わる対策も立てなければなりませんでしたが、楽譜が読めない私はと言うと、数学の方程式を解くかのような私にしか分からない法則を編み出し、何とか対応できるようにしていきました。

 そして、採用試験です。

 私は、東京都を含めて二つの自治体の試験を受けましたが、共に音楽に関わる内容がしっかりと盛り込まれていました。

「初見(初めて目にする楽譜)でピアノを弾く」

「持ち込みの曲で弾き歌いをする」

「歌詞に合わせて歌いながら表現をする」

といった内容でした。

  初見など、楽譜が分からない私にできるはずがありません。

  首を傾げながらピアノを触っているうちに、終了時間です。

  それでも、あいさつくらいは誰にも負けないようにしなければと思い、「ありがとうございました!」と大声で一礼しました。

 弾き歌いは、ピアノよりも大きな声を出してカバーするようにし歌って表現する内容は、ここぞとばかり大胆に演じました。

 結果は、なぜか、合格。

 他の受験者に比べて、能力的に劣っているのは明らかでしたのできっと何かの手違いがあったからだと今でも思っています。

 その一方で、私の代わりに涙を飲むことになった受験者の分も頑張らなければ、という思いや、これから出会うであろう子どもたちに対して、できないこと尽くしの人間だからこそできることがあると試されているような思いにもなり、結果的にピアノ教室には大学を卒業するまで通い続けました。

 これで少しでも上達していれば、美しい話だったのですが、そうはいかず、焼け石に水、のれんに腕押し、私にピアノでした。

 それでも毎回毎回丁寧に関わってくださったピアノの先生には、感謝の思いでいっぱいです。

 さて、当然のことながら、採用試験に合格することがゴールではなく、現場に出てからがスタートです。

 頭では分かっていましたが、それを痛感することが次々と訪れることになりました。              (次回に続く)

 

その⑧

 音楽コンプレックス(その②)

 

 

 

(前回の続き)

 小学校時代にセンスのなさを認識できた私は、今後音楽とは無縁の生活になることを確信し、中学校・高校と、音楽は授業をこなすだけで過ごしました。

 ところが、(そこも相当の経緯があったのですが割愛します)大学に入り、音楽と向き合わなければならなくなったのです。

 事もあろうに授業の必須科目で「ピアノ」があり、実技によって単位を出されるという、私にとっては致命的な内容でした。

 忘れもしない、授業の初日。

 予め自分の弾きたい曲を決めておき、授業の場で一人ずつ順番に弾く(発表)という時間でした。

 経験の有無やセンスが出る時間です。

 教員養成課程ということもあり、ピアノ経験者が多く、ピアノを弾く度に大きな拍手と感嘆の声が挙がります。

 何とも清く美しい時間でした。

 そして、いよいよ、私の順番です。

 私は、右手人差し指一本で「きらきらぼし」を弾いたのでした。

 それも、どうにかこうにか、やっとこさです。

 まさしく小学校一年生にタイムスリップしたかのような姿。

 それまでのムードは一転、「マジで、ヤバいわ・・・」の空気に。

 声を押し殺し、涙を出しながら笑う友達が続出です。

 そして、大学の先生は、非常にいたたまれないといった表情で、

 「キ、君・・・、も、もういいよ・・・」と私を傷つけないよう、最大限の配慮を込めて仰いました。

 大学に入って初めてピアノに触れたというレベルの私ですので、無理もない、というところですが、現実は甘くありません。

 その授業は、「バイエル」を終えることが、単位取得のための最低ラインとされていたからです。

 ピアノ経験者ならば既にクリアできているレベルかも知れませんが、私からすると、初めてバットを握った人間にホームランを打つようにと言われているような理不尽極まりない内容です。

 そして更に難題がやってきます。抑も「バイエル」は歌とは違いこれまでに聞いたことがないメロディーです。

 そのため、楽譜が読めない私は、何をどうすれば良いのか途方に暮れるばかりといった有様でした。

 楽譜のオタマジャクシに合わせて、恐らくここであろうピアノの鍵盤箇所に指を置く、という調子です。

 友達にも、随分とお世話になりました。

 大学のピアノ練習室に随分とこもって格闘していましたが、自分の実力は自分が一番よく分かるものです。

 「バイエルなんて、絶対に終わるはずがない!」

 との結論に至りました。

 そこで、私は一計を案じます。

 バイエルの楽譜は各自が購入する形となっていたのですが、その裏をかく形で、バイエルが全て載っていない概要版的な楽譜を購入し、どうにかそれで切り抜けようという姑息な作戦を考えました。

 勿論、先生もそこは見抜かれていたはずですが、温かなまなざしでその楽譜を使うことを認めてくださいました。

 少しでも上手になりたい、先生の喜ぶ顔も見たい、と思いながら取り組みましたが、残念なことに上手になる兆しは一向に見られず実際には先生に頼み込み、単位を「お情け」で出していただいた、という何とも情けない形でした。

とは言え、単位もどうにか得ることができ、これで音楽との縁も切れたと思いきや、真に大変なことが訪れました。(次回へ続く)

 

その⑦

  音楽コンプレックス(その①)

 

 

 

 コンプレックスだらけの私(↘)ですが、その中の一つとして、「音楽コンプレックス」があります。

 躓いたのは、小学校1年生の時でした。

 音楽の授業で音楽室に行き、個別の机に着席しました。

 その机は、鍵盤がプリントされており、音は出ないまでもピアノを弾くかの如くな経験ができるように設えられてありました。

「おおっ!」と暢気に思いながらその鍵盤を眺めているうちに、先生の説明が始まり、そのままついて行けなくなったのです。

 その時に分からないことを聞けば、遅れを取り戻すことができたはずだったのですが、案の定、そのままにしていたため、どんどん友達との差は広がるばかりでした。

 そのような私に、更に追い打ちをかけるような出来事が・・・。

 高学年を迎える頃、希望者を募る形で新たに「金管バンド」なる部を設けることが決まりました。

 その前振り的要素もあったと思うのですが、音楽の授業で全員がマウスピースを吹くというコンテスト的なことを行ないました。

 そこで、先生がその子のセンスを見ていきます。

 すぐにコツを掴む子もいれば、そうでない子も出るわけで、私はというと顔を真っ赤にして必死に頬を膨らませているだけでした。

 勿論、私が先生から声を掛けられることはなく、

 「やっぱり自分は音楽的センスがない・・・」と、次々とコツを掴む友達を目にしながら、劣等感を募らせたのでした。

 一時、金管バンドは学校でブームのようにもなり、活躍する友達も次々と出て、華やかな部になっていたことを覚えています。

 私は、益々音楽から逃げ、運動の方へと軸足を置くようになっていき、コンプレックスは高まる一方でした。

 だからなのかどうなのかは分かりませんが、私は未だに何かの歌を「ド・レ・ミ」で変換することができません・・・。

 よって、楽譜も読めません・・・。(涙)

 そのため、曲を弾くときは「ド」を基準にして指を置き、楽譜のオタマジャクシを見ながらパソコンのキーボードを叩くかのように合わせていく、というセオリー度外視の方法をとっていました。

 ひょっとしたら、小学校1年生の時に先生に聞いていれば少しは違ったのかも、と今更ながらに思うことがあります。

(それでも多分駄目だっただろうという確信をもちつつ・・・)

*お恥ずかしいことに、音楽コンプレックスの内容は、この他にも多々ありますので、次回以降も記していきたいと思います。

 

その⑥

  九死に一生!?

 

 今年二十歳を迎える息子は、小さい頃から今に至るまで、鉄道が大好きです。

 私が休みの時は、決まって二人で何かしらの電車に乗って過ごすことが慣わしになっていました。

 さて、息子が幼稚園児だった頃、その時は「都電荒川線」に乗りたいという話になりました。

 随分と乗った後に終点の「早稲田」で下車し、しばし周辺を散歩していたところ、とあることが私の身に起こったのです。

 それは、単なる生理現象なのですが、大きな方の「お通じ警報」が発令されたのです・・・。

 ちょうど飲み物を買いたいタイミングでもあったため、買い物を兼ねてコンビニのトイレを借りることとしました。

 大きくきれいなトイレに二人で入ります。

 まずは息子が用を足しました。そして次に満を持して私が・・・と、ここまでは良かったのですが、大変なことに気がついたのです。

 それは・・・

 「か、紙が、ない・・・!」

 二人でストックがないか探したののですが、見当たりません。

 もう、これは八方塞がり状態です。

 私はご想像の通りの体勢ですし、息子は、引っ込み思案で人前で話をするのは苦手としていましたので、私は最初に紙の有無を確認しておかなかった自分を恥じるとともに、途方に暮れながらどこかで替えのパンツを購入することばかりを考えていました。

 すると、次に何とも驚くことが起きたのです。

 息子が、これまでには見せたことのない、凛とした表情に変わり、「パパ、待っていて!」と力強く声を掛けてくれたと思いきや、すぐさまトイレを出て恐らくはレジに行き、店員さんに「すみません!トイレットペーパーがなくなったので、いただけますか?」と実にしっかりはっきりとした口調でお願いをしていたのです。

 そして、数十秒後、「もらってきたよ!」とトイレットペーパーを手にトイレに戻ってきてくれたのでした。

 私は、息子のおかげで九死に一生を得たのでした。

 と同時に、およそ想像もしていなかった息子の姿に非常に驚かされました。

 仕事柄、気が弱く、消極的な我が子に困っているというご相談を受けることがあります。

 もちろん、人それぞれの歩みがあるのですが、この例のように何かのシチュエーションが思わぬ姿を引き出してくれることもありますし、実は消極的に見えるのは外側から映る姿であるだけで、案外本人はその間、周囲の状況をしっかりと見ているだけ、ということもあり得ます。

 特に親としては、子どもの足りないと思う点は気になるものですので、何とかしたいという思いに駆られがちですが、無理やり矯正しようとする時は大抵うまくいかないものです。

 誰しも得意不得意はあるもの、自分自身もそうだしなぁ、と大らかに構えながらその子の個性に向き合うことが近道につながるように感じています。

 

その⑤

 ちょっとだけモヤっているもの

 

 

 

 大変うれしくありがたいことに、世の中では多くのボランティア活動が行われています。

 災害地支援や各種社会貢献活動など、範囲は多岐に渡ります。

 一般的に、「自発的な意志に基づき、他人や社会に貢献する行為」と定義されているようですが、範囲が広いだけに、何をもってどこまで、といったあたりが難しい側面もあるようです。

 さて、このボランティアについてですが、私の中でちょっとだけモヤっている部分があるのです。

 近年特にですが、進学や就職に関わる内申者や面接書的な内容に関して、ボランティアに関わる経験の有無が問われるようになってきました。

 どの程度の幅のある経験をしてきたか、というあたりを考慮するための大切な要素の一つとしては理解しつつも、その一方で合格や採用をされたい側からすると加点要素になる訳で、そうなりますと人によっては計算が働き、傾向と対策としてボランティアを行う姿も出てきます。

 そのため、本来は見返り的なものを求めない、というボランティアの姿から離れるかのように、目的が「誰かのため人のため」から「自分の合格のためにだけ」とどこか心を伴わない形へと変容していってしまうのでは、という思いに駆られることがあります。

 そのあたり、あくまでも人の心や主体性に関わる部分であるだけに、バランスをどのような案配で保つのか、というあたりが難しいところなのでしょうが、ボランティアといった言葉で括る内容の前段として、抑のちょっとした心を伴う助け合いの輪が広がっていけば、と思うところです。

 その心の素地ができている人は、どのような環境においても活躍でき、評価されていくはずです。

 

その④

 耐性を養うには

 

 「我慢強い子に育ってほしい」 

 これは、お子さんに対しての、親の願いの大きな内容の一つかも知れません。

 すぐに諦めてしまう、我が儘ばかり言う、癇癪を起こす、泣いて主張ばかりする等々、生活の中で何とかならないものか、と感じることもあるように思います。

 ここ最近「レジリエンス」(困難をしなやかに乗り越えて回復する力)なる言葉も聞かれるようになり、今後ますます求められるような気もするところです。

 それでは、今の子どもが全般に渡って耐性が低いかと問われればそこは、致し方ないところがあるかと思います。

 加速度的に便利な世の中になり、我慢する機会や苦労をする経験そのものが少なくなっているため、子どもからすると、この状況の中でどうやって親が望む姿になれば良いのか、と逆に問いたくなる部分があるように感じています。

 実は子どもに限らず、大人も同様の状況である訳ですので、すぐにキレる大人や自己中心的な大人が増えていると言われているその遠因になっているのかも知れませんね。

 さて、それではどのようにして子どもに耐性を身につけさせたら良いのか、というところになりますが、スパルタな事を行い、根性一辺倒な関わりが良いかと言われれば、首を傾げざるを得ません。

 ただ、上手に「ままならないもの」に出会い対峙する経験は大切だと思います。

 そこで、有効かも知れないと思うのが、「自然との関わり」です。

 自然は、人間の予想に反する姿をたくさん見せてくれます。そのため、人間が自ずと自然に合わせる状況が生まれます。

 一番分かりやすい例が「天気」です。

 いくら外に出掛けたくても雨が降っていれば我慢する他はなく、逆に我慢のその後に快晴であれば、喜びもひとしおです。

 他にも、その瞬間にしか咲かないきれいな花との出会い、苦労に苦労を重ねて捕まえた生き物を慈しむこと、家庭で飼育してみようとして試行錯誤してみたところ、うまくいかなかった経験などなど自ずと自分が主体的に動きながらも、相手に合わせてしなやかに動くことが求められます。

 また、自然の中にいるだけで、ヒーリング効果なるものもある訳ですので、理屈では分からない心穏やかになるような経験もできることでしょう。

 このように、「自然」は、子どもにとっても大人にとっても最良の教科書でもあるように思います。

 このようにしたり顔で記しつつも、人間ができていない私自身は雨天等で子どもたちの行事を延期とする判断の度に、深~いため息をついているところです。

 そして、「自分の行いが悪いからではないか」などと根拠に欠ける思いにもなってしまうのですが、古より「お天道様が見ている」といったある種の畏れを抱き、我が身を律することにつながる経験ができていたのも、自然からの恩恵の一つなのかも知れませんね。

 

その③

 足下で輝く星

 

 人間が毎日使う場所は、仕方のないことでもありますが、最初は新鮮でも時間の経過とともに良くも悪くも当たり前の場所となってしまう傾向があります。

 その一つなのかも知れないと思いつつ、一点ご紹介します。

 本園靴箱スペースの床材についてです。

 柔らかなベージュ色の長尺シートで施工されてありますが、実はこの素材になる前は、重厚感のある昔ながらのタイル敷きでした。

 タイル素材は、格調高いムードを醸し出す良さがあるのですが、その一方で、非常に硬い素材であり、雨など水が乗った途端に滑りやすくなってしまう、というデメリット面もあります。

 幼稚園は、保育室のみならず園内の様々な場所を活動のスペースとするため、より安全で使い勝手の良いものにしていく必要があります。

 現在の仕様となったその背景には、最良の素材を吟味して選定に至った関係の方々のあたたかな思いが感じられるのでした。

 実は、現在のこの素材は、かの有名な施設である「◯◯◯◯◯◯ミュージアム」に使用されている床材と同じなのだそうです。

 よく見てみると、◯や△、□などの形でアクセントのある凹凸を用いた滑り止め加工がなされています。また、シート自体の厚みも現存するシートの中で最高レベルなのだそうです。

 なぜ私がこのことを知っていたかというと、前任園で改修工事があり、その際に設計会社さんと「安全で最良の素材を!」、と探しに探してたどり着いたものと全く同じだったからです。

 本園と前任園とでは設計会社さんはもちろんのこと、携わった方々は全く違いますが、結果的に同じ素材であったことは驚きでもあり、とてもうれしく感じています。

 そして、おまけの内容になりますが、凹凸模様をよく見てみると隠れキャラクターのように稀に☆模様が紛れています。

 おそらくは、メーカーさんの遊び心なのではないか、と拝察しているところですが、このような心配りもうれしいものですね。

 お時間のある時にでも、お子さんと一緒に足下できれいに輝く ☆(ラッキースター)を探してみていただければ幸いです。

 

その②

 親しきSNSにも礼儀あり

 

 

 

 このところ、時が経つのが早くなったように感じることが増えてきました。

 それは、私が年をとったから、ということは理解しつつ、それにしても…と感じるのは、恐らくは、日々膨大な情報量が迅速に行き来する世の中になったからなのかも知れません。

 そのような時代に取り残されないようにするために、トレンドについていかなければ、と一人背伸びをする日々です。

(ふくらはぎをピクピクさせながら…)

 スマホ一つ取り上げても、もはや小型パソコン以上の状態です。

 娘や息子、また、先生たちから多くの話を聞きながら、なるほどなるほどと、勉強の日々です。

 今やスマホがなくなったら最後、途方に暮れるような生活様式になっているのが現実です。

 肌身離さずに扱うスマホ。だからこそ気をつけなければと感じるのは、人とやりとりをする際の感覚についてです。

 年度初めというタイミングも相まって、ラインやメール、各種の書き込みなど、SNSを扱う機会も多いかと思います。

 そのような際、案外出やすいのが、「情」です。

 良い方面の情ならば良いのですが、悪い方面での情も出やすくなります。

 そこに相手が直接いない分、良くも悪くも本音((さが))が出やすくなります。

 自分の心にブレーキをかけにくい状態が生まれやすくなること、また、端的な文章が中心になることから、誤解も生まれやすくなってしまいます。

 心ない書き込みが相手を深く傷つける内容については、各種報道等の通りですし、親しい相手とのやりとりでも、ちょっとしたことでボタンの掛け違いに発展してしまうこともよくあります。

 だからこそ、自分の思いを表現するその前に、「相手」に思いを馳せることを大切にしたいものです。

 内容云々についてはもちろんのこと、例えばラインを送る際の時間帯は適切なのかなど、「自分は良くても、相手にとってはたまったものではない」ことについても、発信の数と同じだけ考えることが求められているように感じます。

 言葉のボールは投げっ放しで良いものではなく、あくまでも相手と心地よいキャッチボールをするためにあるものだと思います。

 「親しき仲にも礼儀あり」という内容に加えて、「近しきSNSにも礼儀あり」を意識しなければならないと感じます。

 私自身は、本音の部分で「それにしても、全く面倒な世の中になったなぁ…」と思いつつ、「ダメダメ、今の世の中に順応しなければ…」と自問自答しながら背伸びする日々です。

 

その①

 「記念の時」

 

 

 

 待ちに待った一学期が始まりました。

 子どもたちも先生たちも、気持ちを新たにしてのスタートです。

 進級や入園は、幼稚園としては毎年の取組内容になるのですが、その年毎に子どもたちは違う訳ですので、とても新鮮で自分の心が洗われるような気持ちにさせられます。

 年長さんは、待ちに待った最高学年。前年度の年長さんから引き継いだ当番活動や年少さんへのお手伝いに意欲的に取り組みつつも自分たちの学年だけの生活を展開させているところです。 

 年中さんは、ワクワクドキドキの二階での生活。これまでは年少組だっただけに、急に背伸びをしたかのような感がしました。

 そして、年少さんは初めての集団生活です。

 年長さんの実に温かいフォローもあり、私が心配になるくらいの楽しくスムーズなスタートを切っています。

 保護者の皆様からしても、一喜一憂の日々かと思いますが、このようにお子さんと一緒になって感じたり考えたりする行為そのものが非常に尊いと改めて感じます。

 私にも既に成人した娘と息子がいますが、二人が幼稚園にいた頃の記憶は今でも鮮明に残っています。

 今になって思うに、それは、きっと大人の手を要する年齢であるがために、ともに試行錯誤(もがき苦しみ?)しながら歩んできたからこそ、だったのかも知れません。

 子どもは成長するにつれ、大人の手をどんどん離れていきます。

 今は年齢的に何かと大変なことだらけかとは思いますが、手をかけ心をかけていくことが一番できる時期とも言えます。

 今、お子さんは新生活をスタートし、目には見えにくい実に様々な思いを抱いています。お子さんからの話をたくさん聞いて、想像を巡らせて、且つ教職員とも多くの情報共有をしながら今の記念の時をお子さんと一緒に味わっていただければうれしく思います。

 

ごあいさつ

 

 

 今年は桜の花が咲いた中での始業式・入園式となりました。

 お子様のご進級・ご入園、誠におめでとうございます。

 子どもたちと一緒に、楽しく充実した幼稚園生活を作っていけるよう、尽力いたします。

 さて、昨年度からの引き続きとなりますが、日頃皆様となかなか個別にお話することが叶わないこと等を鑑みて、心に浮かんだ事柄を諸々とりとめもなく書き綴る形で、コラムをお送りいたします。

 このことをきっかけに皆様と直接お話をすることができたり、日々子育てで大変な部分での力が少しでも抜けたりすることにつながればうれしく思います。

 週一回のペースでお届けする予定でいますので、隙間時間にでもご覧いただければ幸いに存じます。

 どうぞよろしくお願いいたします。